青いビンの底

私の、誠実さ(に近いもの)になりうる手段

ノンタイトル

いい加減内部の空洞を凝視することに飽きてしまった。

 

いや、本当はとっくに飽きていたのだが、明るいところを見ることによる眩しさに怯えていたのかもしれない。

 

先程、今日一日における咳止めのビン3つ目を消費した。

 

これで最後だと思うたびに、思い切った量を飲んでしまうのだ。

 

何も変わってないじゃないか。

いい加減自分の愚かさを直視せざるを得ない状況になってきた。

そろそろ笑えなくなってきた。

 

それに、クリーンな状態になってからやりたいことや、会いたい人がいるのだと気づいた。

酩酊の中にあっても、そのことを感じ取ることができたのは、光明と言っては大げさだとしたら、何かがぱちんと爆ぜる音、とでも言おう。

 

飽きたし、疲れたし、不安だし、悔しいし、虚しいのだ。

底を打ったなどと考えてはいけない。

人間は、もっと、どこまでも墜ち続けられてしまう存在だ。

生きる力とは即ち浮力だ。

それが積極的か消極的かは問題ではない。

 

そして、大切なのは意思を持つことだ。

 

僕はこれから、ずっと付きまとう堕落の誘惑に抗わなければならない。

 

だから、これからはこの日記はやめるために書きたい。

もっと人間らしく生きるために。

 

きっとまだ終わりなんかではないはずだ。

 

 

夜のこと。灯りのこと。

僕の家のトイレには、裸の電球が設置されている。それが換気扇のスイッチと連動しているので、スイッチを入れれば、換気扇が回ると同時に、電球がパッと明るくなる。

 

"本来は"暖かみのある暖色の灯りだ。

きわめて常識的な色だと思う。

 

 

しかし、その時の電球は紅く発光していた。

 

つまりトイレ中が紅くなる。

紅い。食紅を水に溶かしたような色だ。

もちろん、電球が気まぐれに色を変えるわけがない。

僕の視覚が変容しているのだ。

 

用を足し、リビングに出る。

いつものように夜間に点けているキッチンの蛍光灯も紅い。

シンクもコンロも、ジャスミン茶を入れていたマグカップも、全てが妖しく照らされていた。

 

身体は火照り、鼓動が早くなっている。

 

その時、恐らく夜中の2時ごろだろうか。

僕の身体は尋常ではなくなっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今何をしてるの?とLINEを送ると、数分後に通話がかかってきた。

聞けば、今は松濤にいて、大嫌いなワインを飲んでいるのだと言う。

 

ミネラルウォーター
炭酸水
紅茶
コーヒー

 

これが僕に与えられた選択肢だ。

車で向かうことにしたので、酒の類は無い。

僕は炭酸水にすると告げた。オーダーしておいて、僕が来るまで待っていると言う。

本当は冷たいコーヒーを飲みたかったが、夜のカフェインは極力避けることにしている。

どうせ咳止めで多量のカフェインを摂取しているのだから、なんとも頓珍漢な健康志向である。

 

気取った店のテラス席に彼女はいた。

ネオンサインが健気に発光している。

僕が席に着くなり、皿に残っていたよくわからない食べ物を勧めてきた。美味しくないから食べてみろ、と。

生ハムとメロン。生クリームが乗っている。

不味くはない。

だが彼女の言う通り、この三者の邂逅はあまり好ましいものではなかった。

すでにテーブルに置かれていた炭酸水を飲み、僕はこれからのことを考えていた。

すると彼女は言った。車で寝させてくれないか、と。そのまま僕の家の車庫で寝る、と。

なんとも奇妙な要望だが、その奇妙さは、符丁を符丁として成立させるために大いに役立った。

僕は、別に構わないと言って、彼女が本当に車庫の車の中で寝ることを想像してみた。

あまりに気の毒な光景だ。

そうして、退廃と生存の象徴たる我が家へと招くことになった。

 

コインパーキングで、彼女は割れたビンに触れたために怪我をした。

コンビニに寄って絆創膏を買い、家へと車を走らせた。

 

家に帰り、彼女の床を拵えた。

生活感があるのか無いのかわからない、古代遺跡のような家、というのが彼女の我が家に対する評価だった。

そして、ぎこちのない、とりとめのないじゃれ合いの後、キスをして愛撫を始めた。

 

いつもの懸念が頭に持ち上がったために、僕はバイアグラを、1錠とその半錠ぶんを飲んでいた。

 

愛撫を続けていたが、尿意を感じたために一言断り中断して、トイレに向かった。

 

そのトイレが紅く染まっていたのだ。

 

すぐにバイアグラに起因するものと理解した。

 

 

結局、1番欲していた身体への作用は満足に得られなかった。

重症である。

 

 

 

翌日には、彼女と夕方まで怠惰に過ごした後、散歩へと出かけた。

 

互いの家族のことや、過去のことを話していた。

高架下のアスレチックで彼女の写真を撮って、無遠慮に僕が焚くストロボに、眩しい、と彼女は顔をしかめた。

 

彼女は僕のことが好きだと言った。

僕は相槌を打っただけだった。

その事に対して怒りも落胆もないように見えた。

見せないようにしていたのかもしれない。

僕はすでに、彼女にとって憎むべき存在になっているだろうか?

 

途中雨に打たれながらも、無料喫煙所なる場所でとてもこぢんまりとした傘を頂き、そして飯田橋で別れた。

別れぎわにキスをして、電車に乗った彼女を見えなくなるまで見送った。

 

 

 

 

僕は期待することをやめていたから、あの夜を経ても何も変わらなかったことに失望したりしない。

 

 

彼女は僕を抱きしめてくれた。

雨の夜を歩き、互いに過去のことを教えあい、僕たちの前には、座礁した巨大な一頭の鯨のように絶望が横たわっていた。

それでも、打ちのめされることはなかった。

 

 

 

 

 

 

光が紅く染まっていたこと。

 

彼女が僕に優しくしてくれたこと。

 

 

 

 

 

 

 

僕はいつかその夜を思い出すだろうか。

今日はスコールがあった

しばらく書いていなかった。

その間毎日オーバードーズをしていた。

まあ書くまでもないが。

 

ぎっくり腰が再発し、座り方・立ち方ともに工夫が必要な現在である。

10代の頃には想像しなかったことだ。

胃が悪くなる事については、薬の影響だろう。

他の多くと同じように、もともと胃が荒れる薬なのだろう。

調子によっては吐いてしまい、胃がからになっても、えずいてしまう。これがかなりキツい。

そんな時はいつも何を考えていただろうか?

 

あと数ヶ月で30になるというのに咳止めをODしている。

これも10代には想像しなかったかというとそんな事もなく、むしろこれは高2頃から始まった習慣である。

 

少なくともその時には、腰をやられることより、薬で酩酊することの方がずっと身近だった。

だから10年以上続く悪習というわけで、胃はもちろん、肝臓も相当疲れているはずだ。

ヘパリーゼを飲んどけばまあ大丈夫だろう。

錠剤のやつね。成分がずっと多いのだ。

ただ、濡れた時に錠剤を触ったら、2日くらい手についた蛍光ピンクの色が取れなかった。

あのこげ茶色を出すためにこんなどぎつい色を使うとは思わなかった。

あの色材は肝臓に悪そうなものである。

 

最近人とのコミュニケーションを欲している自覚が鮮明になっている。

知恵袋は使いまくるし、楽天で買った店に長々とメールを送る。

あの服屋の中では有名人に違いない。

 

書くことが特に無いが、人に読ませるために書いているわけでは無いし、締め切りもない。

役に立つとすれば、僕のように1人で誰にも言えずに咳止めをがぶ飲みしてるような人が、あぁ、自分だけじゃなかったのかと実感できることかもしれない。

頭では理解しているのだ。なぜなら、購入する時には散々乱用のリスクを強調されるからだ。

しかし、その時にかえって孤独を意識させられる。店員は、うわ…これがジャンキーか…、とばかりになんとも言えない表情である。

店としても、法令に対する体裁を繕うところが殆どだ。

 

しかし1人だけ、しつこく色々確認してきて、できれば買わせないようにしてくる人が福○郎にいる。妙齢の女性である。

明らかに僕の存在を認識、危惧しており、前回買ったのはいつか、長く咳が続くなら病院に行くべきだ、と、詰問してきた。

病院に行くまでは辛いので買います。

と言って力技で切り抜けた。

 

ジャンキーとして舌打ちものだが、寂しがり屋の青年としては心を打たれた思いだ。

良い人だが、一店員として利益を損なう事は出来なかったのだろう。

個人店だったらまず断られていたはずだ。

まぁ、買うんだけどね。

ジャンキーだから。

買うに決まってんじゃん。

 

万が一これを読んだジャンキーさんがいらっしゃいましたらコメントが欲しいです。

お友達になりましょう。

 

梅雨に入り、憂鬱な夏が近いてきている。

 

しかし、僕は長いこと氷河期に生きている気がする。

自ら迷い込んだ節もあるが。

 

明けない夜は無い。

そんなこと言う奴は、極夜を知らないだけだ。

 

夜のまま自ら終わりを選んだ人がどれほどいただろうか?

 

この世界では、何一つ解決などしていない。

我々にできる事は、せいぜい問題を見出すことくらいだろう。

起きてから本当にだるい…

という日もあれば、まあ動けるかな、という時もある。

件の甘ったるい白い錠剤の多寡やその服用する時間帯に左右されるのだが、

どうにもそれが絶対的な要因ではないようだ。

夜中に呆れるほど流し込んだにも関わらず、それなりのコンディションの時もあるし、その逆も然り、だ。

もちろん関係は否定できないのだが、これをコントロール・改善すれば、朝は間違いなくスッキリ、とはいかなさそうである。

もともと朝は弱い。

朝、無理に起こされる時は必ず機嫌が悪くなる。こんなにひどい眠気の俺をよく起こせるな、と。何とも非大人的態度である。

 

野球をやらされていた頃はもっと朝が嫌いだった。練習日の起床は多大な心的ダメージをもたらした。まだ仄暗い早朝に起きるときなど、実に暗澹たる気持ちになった。

 

そして、今、こうしてサンデーモーニングをゆっくり観られることに喜びを感じる。

ざまぁ見ろ、と。

唐橋ユミのナレイションが小鳥の囀りのようた。

寝起きの自分に"喝"を入れる必要もない。

 

嫌いだったNHK「小さな旅」のテーマ曲も、よくよく聴くと味わい深いものだ。

旅でありながら、その行先にはどこか懐かしさを感じる。

我々日本人が失いかけている望郷の感情である。

没してゆく茜色、ひぐらしの調べ、赤とんぼの旋回…

 

 

ところで先日、ある女の子に 会いたい とLINEを送った。一連の会話の最後にではあるが。やさしくしてほしい、とも。これは恥ずかしいので婉曲して他者として告げた。

 

彼はやさしくされたいらしい。

 

彼女は私も会いたいと言い、すぐにでもやさしくするつもり、と言ってくれた。

 

僕は素直な気持ちで会いたいと言った。

愛情とかそんなものを抜きにした本物の感情だ。

こんな素直なことを言ったのは随分久しぶりのように思う。偽りで塗り固めることが生の条件というわけではないのに。

 

僕も、

彼もすぐにでもそうしてほしいと言っている

と送った。

 

彼女はいつもふざけているように思えるし、ときに暴力的だ。

しかし、聡明で、いつも的確な言葉を探しているようでもある。真剣な話題においては誠意(と多少の好奇心)を示している。

 

そして、やさしくして欲しい男がいたら、実にそうしてくれるのではないだろうか。

そんな期待がある。

 

とりあえず薬はやめないとね。

やめなくても会えるけど、やめたら会い続けられると思う。

ブランニューデイ

今日は新しい人が職場に来た。

寝起きは最悪で、(しかしそうなることはある程度予想していたので)今日は歯医者に行くから遅れる、と父に嘘をついておいた。

そもそも嘘をつくことが苦手な性格だ。

しかし慣れることはできる。

僕は嘘をつくことにずいぶんと慣れてしまった。もしかしたら、父も嘘をつかれることに慣れているのかもしれない。そんな気がした。

 

新しい人に対しては、そこまでいい印象を与えなかっただろう。そしてまた、極端に悪い印象も与えていない。はずだ。

 

朝起きるまでに、ちょうど2時間の感覚で4回目が覚めた。ブロンの覚醒作用と思われる。

眠りが浅くなるためか、そういう日の調子はひどいものだ。

今日も体調・精神面ともにバッドコンディションであった。身体が火照り、汗が止まらない。

覚悟しておくとそこまでパニックを引き起こすことはないが、自臭症持ちとしてはやはりなかなかにキツい。

身体が火照るたびに臭いがきつくなっていっている。気がしてならない。この自臭症というやつは、自分では臭いが確認できないのでたちが悪い。一度モードに入ってしまうと、その焦りがますます火照りを助長し、負のスパイラルに陥っていく。

この自臭症には本当に苦しめられている。日中何が1番辛いかと言えば、これなのだ。

なぜ人が臭いものを忌避するか。たぶん、有毒なガス、腐敗したものの臭いや死臭、その他衛生的な問題を回避するためだろう。

当然臭いやつは集団から切り離される。なんらかの疾患があれば、それは感染するかもしれないし、不衛生な個体からは遠ざかりたいものだろう。

集団から疎外されることへの恐れ。実に明確な社会不安の構造である。

 

嘘をつくことに慣れてしまったと書いた。

ブロン依存が再燃してから、僕は仕事に遅刻する事が多くなり、休みがちにもなった。

父はこういう場合、直接僕に注意する事はなく、これまた同じ職場で、今は休職中の姉に愚痴る。

先日姉夫婦と姪、旦那さんの父と集まった。

姪は姉以外に抱かれるとぐずる事が多いが、その時私が抱いても、平然としていた。

姉は言った。「同じ赤ちゃん的なところがあるからじゃないか」と。

侮蔑と冷笑の混ざった表情がそこにはあった。

私は常に家族の問題であった。

家族のみなが共有する問題そのものであった。

家族の構造というのは滅多な事がない限り変わらないものだ。

私の家族の"滅多なこと"は母の死であった。

私は父の攻撃性のはけ口になり、「障害者」と言われた。

そんな風にして多くのことが変わった。

そして、僕は黒い羊としての地位を得た。

 

僕にとって、家族ほど他者との隔絶を感じさせる者は他にいない。

なぜなら、もっとも近しい間柄であるからだ。

 

他者との関係で自らの位置を確認せざるを得ない、その人間の社会性というやつにはほとほとうんざりさせられている。

 

今日はなんだか疲れた。

新しい事は疲れる。新しい喜びをもたらすわけでもないのに。僕が怠惰な人間だから、というのがおおよその見解である。

 

とりあえず今日はやり過ごした。

明日は手伝いの人は来ない。

圧倒的他者たる父と2人で労働に勤しむということだ。

 

ずいぶんと陰惨な日記だ。

が、まぁこんなもんだろう。

 

薬なんてさっさと辞めたほうがいい。わかっているよそんなこと。

明日から頑張ろう。

明日から、ね。

 

白衣、或いは青いマントの女性

パンダが日がな一日ゴロゴロしているのは笹の毒を分解するためだと聞いたことがある。

人間が解毒する時も活動量が落ちるに違いない。昼に一度起きたがまた宵の口まで寝ていた。そもそも寝る時間が遅いのは問題なのだけど、それにしても寝過ぎじゃないかと思う。

思えば、少なくとも昨日今日に関して言えば、シラフで起きている時間というのが無い。

書くために改めて考えると、重篤な依存の状態に思えてならない。少しは焦燥感も出るというものだが、それが役に立った記憶はあまり無い。

薬のことばかり書いているが、その依存からの脱却に一役買ってくれないかと思って書き始めたので当たり前ではある。一応1日一回書くことを当面の目標としている。アウトプットすることは大事らしいが、紙に文字を書くというのはハードルが高い。あまりに儀式的でやっていてバカバカしくなるに違いない。

それにしてもずっと自分の問題と向き合うというのも疲弊するものだ。僕は甘えた人間なので辛いことから逃れる癖がついている。

しかし、他に書くことがあるかというと、やっぱり特に無いと思う。

 

 

不安なことを一つ挙げよう。明日職場に新しい人が来るらしいが、女性で歳は僕の二つか三つ上らしい。

 

今から残念に思うのは、その人の僕に対する第一印象はジャンキーの状態であることだ。

必要以上によそよそしくて、挙動不審、いつも何かに怯えている。そこまで明確に判断される事はないと思うが、あれ、なんか変わった人だな、と思われる可能性は極めて高い。

フリーランスの人が手伝いに来るだけなので、もう来たくないと思えば簡単に来なくなる。

よほど給料がいいなら別だが、僕のところはそうでもない、というかむしろ安いので、キモいと思われれば来なくなっちゃってもしょうがないのである。

よそよそしくて、挙動不審、いつも何かに怯えている。こんな様子はジャンキーだから生まれるというとそうではなくて、元来僕が臆病なので、その臆病さが過度に増幅されているに過ぎない。

基本的にはそれは隠すスタンスをとっているし、社会もそれを要請している。

そうなるとどうなるか。弱さを気取られないように非友好的になるのだ。

基本的に愛想を振りまくが、根っこのところでは、あなたとは交わりませんよ、という姿勢をとることになる。

人の観察眼というのは残酷なほど高性能で、たいていはその根っこのところまであっさり看破されることになる。

そして生じる問題が、ある種の女性にとっては魅力的な幻想を生じさせるということだ。

保護欲というか、あるいはそれを暴けないことの苦悩というか、とにかくなんらかの魅力が生じるらしい。

恐らく、己の価値の確認(あるいは誤認)に最適だからだ。性を通した極めて人間的な欲求なので、当人の嗜好や意志とは無関係にその蠱惑的な幻想に吸い寄せられていく。

僕が今よりもっとクズだったときには、その対象になることでまた、人間的価値を信じようとしていた。恥ずかしい限りである。

その正体はとるに足らない臆病さである。堅牢さを装ったその防壁が陥落する可能性を示唆し、僕は女性たちを傷つけた。

彼女たちは否応なく引き寄せられたに過ぎない。問題を解消する責任は、選択肢を多く持つ方にある。

そして僕はその責務を放棄した。

 

明日から来る人とはもちろんそんなことがないように最新の注意を払わなければならない。

齢29にしてようやくひとつの責任について分かりかけている。

 

明日が涼しければいいな。

 

今日は一度昼ごろに起き、食事を摂ってまた寝て、起きたのは8時ごろであった。

そこから11:30までなにをするでもなく過ごし、父親が帰ってきたタイミングで、僕を縛りつける薬を買いに行く。本当は縛り付けられているのではなく、自ら底無し沼にはまっているに過ぎない。沼の中で足を掴む手がある、という書き方も適当ではないだろう。正しくはその沼の粘度が恐ろしく高い、といったところか。

状況を的確に捉えることは大事だ。

だが実行することはそれよりも大事になる。


咳止めは、法令によってすべてのドラッグストアで二つ以上の購入が認められていない。今日これまでに、他の店舗で買っていません、と署名をさせる店まであるが、ウソを書けばいいし、店もそれをわかっている。要するに法令に体する体裁なのだ。仮に重篤なジャンキーが大量に流し込み、ひっくり返って、持ち物から店のレシートが出てきても、私どもはきちんと対応しました、と証拠の紙を出す。ご丁寧に購入者の署名まである。署名まで偽った場合の対処はどうなるかまでは想像がつかない。

以前池袋の店で、おそらく20歳前後の男が2人でレジにならび、ブロンを2つ購入しようとした。レジの店員は「購入はお一人一つまでです」と言ったが、若者の1人はこともなげに「1人一個買うんです。1人ずつ」と言った。およそあり得ない状況だが、店員は飲み込まざるを得ない。

見たところ、まだファッション的な用途で済んでいるようだった。

かのジャンキーコピーライター・作家は「ドラッグが反逆のツールになっているうちはまだいい。問題なのはそれが目的と化したときだ」と書いた。それには全く賛成だ。そして、僕は完全に問題を抱え込んでしまっている。1日、いや半日でも抜けば、強烈な倦怠感が待っている。「普通の人間的活動」に近づくためには、飲まなければならない。

咳止めは"ダサい"ドラッグだと思う。ブロン遊びが社会問題となった頃はそうでもなかったかも知れない。少なくとも私は格好よさなど微塵も感じないし、あの時見た2人組もそこまでカッコいいとは思ってなかったはずだ。市販薬のオーバードーズを知っているならば、違法なものへのアクセスも想像しやすくなっているだろうから。とりあえずこれで我慢しとこうぜ、といったところじゃないか。

じゃあ何が"イケてる"か、ということになればそれはやはり違法なもの、とりわけあのカエデに似た葉だろう。

昨今の「日本語ラップ」の受容がそれを助長していることは間違い無いだろう。

舐達麻の逮捕によって、ますますマリファナアナーキーな価値は高まる。

身体的な危険性は咳止めの方が高いだろうが、社会的な危機を招来するものの方がカッコ良いと思われるのはよくわかる。共感はしないが。

アウトローな者によるアンダーグラウンドな流通であることも重要である。

厚生省が官僚的にバカ真面目に「害がないという言説に騙されないで。ダメなものはダメです」と説くほどにマリファナはカッコいいものになってゆく。

1番効果があるのはそもそも関心を向けさせないこと、無価値化だが、それはもう不可能なので、やめろという以外に対処法はない。そのやり方や巧拙については今は書かない。

僕の場合ももちろん、当初は反逆のツールであった。みんなが青春という輝かしいものを謳歌してる中、自分だけが感じているであろう違和感をより顕著にするために咳止めは役に立った。何度も友達とやり、一緒に下北沢の駐車場で嘔吐した。

そしてもう29歳になり、自分の周りにはそんなものやってる者はいない。そもそも他者との交流が乏しいというのもあるが。

自分に人並みに感情があることには気づけたし、その"人並み"の体現者たる他者の感情も尊重すべきだと思っている。

そしてその感情が今依存に駆り立て、他者の感情に対する感受性を著しく低下させているだろう。

早く辞めないとな。こんなこと。苦しいよ。


僕は今怪獣だ。怪獣は人を愛したいと叫ぶ。

僕は叫ばないまでも、ふと思ったはする。