青いビンの底

私の、誠実さ(に近いもの)になりうる手段

夜のこと。灯りのこと。

僕の家のトイレには、裸の電球が設置されている。それが換気扇のスイッチと連動しているので、スイッチを入れれば、換気扇が回ると同時に、電球がパッと明るくなる。

 

"本来は"暖かみのある暖色の灯りだ。

きわめて常識的な色だと思う。

 

 

しかし、その時の電球は紅く発光していた。

 

つまりトイレ中が紅くなる。

紅い。食紅を水に溶かしたような色だ。

もちろん、電球が気まぐれに色を変えるわけがない。

僕の視覚が変容しているのだ。

 

用を足し、リビングに出る。

いつものように夜間に点けているキッチンの蛍光灯も紅い。

シンクもコンロも、ジャスミン茶を入れていたマグカップも、全てが妖しく照らされていた。

 

身体は火照り、鼓動が早くなっている。

 

その時、恐らく夜中の2時ごろだろうか。

僕の身体は尋常ではなくなっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今何をしてるの?とLINEを送ると、数分後に通話がかかってきた。

聞けば、今は松濤にいて、大嫌いなワインを飲んでいるのだと言う。

 

ミネラルウォーター
炭酸水
紅茶
コーヒー

 

これが僕に与えられた選択肢だ。

車で向かうことにしたので、酒の類は無い。

僕は炭酸水にすると告げた。オーダーしておいて、僕が来るまで待っていると言う。

本当は冷たいコーヒーを飲みたかったが、夜のカフェインは極力避けることにしている。

どうせ咳止めで多量のカフェインを摂取しているのだから、なんとも頓珍漢な健康志向である。

 

気取った店のテラス席に彼女はいた。

ネオンサインが健気に発光している。

僕が席に着くなり、皿に残っていたよくわからない食べ物を勧めてきた。美味しくないから食べてみろ、と。

生ハムとメロン。生クリームが乗っている。

不味くはない。

だが彼女の言う通り、この三者の邂逅はあまり好ましいものではなかった。

すでにテーブルに置かれていた炭酸水を飲み、僕はこれからのことを考えていた。

すると彼女は言った。車で寝させてくれないか、と。そのまま僕の家の車庫で寝る、と。

なんとも奇妙な要望だが、その奇妙さは、符丁を符丁として成立させるために大いに役立った。

僕は、別に構わないと言って、彼女が本当に車庫の車の中で寝ることを想像してみた。

あまりに気の毒な光景だ。

そうして、退廃と生存の象徴たる我が家へと招くことになった。

 

コインパーキングで、彼女は割れたビンに触れたために怪我をした。

コンビニに寄って絆創膏を買い、家へと車を走らせた。

 

家に帰り、彼女の床を拵えた。

生活感があるのか無いのかわからない、古代遺跡のような家、というのが彼女の我が家に対する評価だった。

そして、ぎこちのない、とりとめのないじゃれ合いの後、キスをして愛撫を始めた。

 

いつもの懸念が頭に持ち上がったために、僕はバイアグラを、1錠とその半錠ぶんを飲んでいた。

 

愛撫を続けていたが、尿意を感じたために一言断り中断して、トイレに向かった。

 

そのトイレが紅く染まっていたのだ。

 

すぐにバイアグラに起因するものと理解した。

 

 

結局、1番欲していた身体への作用は満足に得られなかった。

重症である。

 

 

 

翌日には、彼女と夕方まで怠惰に過ごした後、散歩へと出かけた。

 

互いの家族のことや、過去のことを話していた。

高架下のアスレチックで彼女の写真を撮って、無遠慮に僕が焚くストロボに、眩しい、と彼女は顔をしかめた。

 

彼女は僕のことが好きだと言った。

僕は相槌を打っただけだった。

その事に対して怒りも落胆もないように見えた。

見せないようにしていたのかもしれない。

僕はすでに、彼女にとって憎むべき存在になっているだろうか?

 

途中雨に打たれながらも、無料喫煙所なる場所でとてもこぢんまりとした傘を頂き、そして飯田橋で別れた。

別れぎわにキスをして、電車に乗った彼女を見えなくなるまで見送った。

 

 

 

 

僕は期待することをやめていたから、あの夜を経ても何も変わらなかったことに失望したりしない。

 

 

彼女は僕を抱きしめてくれた。

雨の夜を歩き、互いに過去のことを教えあい、僕たちの前には、座礁した巨大な一頭の鯨のように絶望が横たわっていた。

それでも、打ちのめされることはなかった。

 

 

 

 

 

 

光が紅く染まっていたこと。

 

彼女が僕に優しくしてくれたこと。

 

 

 

 

 

 

 

僕はいつかその夜を思い出すだろうか。