青いビンの底

私の、誠実さ(に近いもの)になりうる手段

今日は一度昼ごろに起き、食事を摂ってまた寝て、起きたのは8時ごろであった。

そこから11:30までなにをするでもなく過ごし、父親が帰ってきたタイミングで、僕を縛りつける薬を買いに行く。本当は縛り付けられているのではなく、自ら底無し沼にはまっているに過ぎない。沼の中で足を掴む手がある、という書き方も適当ではないだろう。正しくはその沼の粘度が恐ろしく高い、といったところか。

状況を的確に捉えることは大事だ。

だが実行することはそれよりも大事になる。


咳止めは、法令によってすべてのドラッグストアで二つ以上の購入が認められていない。今日これまでに、他の店舗で買っていません、と署名をさせる店まであるが、ウソを書けばいいし、店もそれをわかっている。要するに法令に体する体裁なのだ。仮に重篤なジャンキーが大量に流し込み、ひっくり返って、持ち物から店のレシートが出てきても、私どもはきちんと対応しました、と証拠の紙を出す。ご丁寧に購入者の署名まである。署名まで偽った場合の対処はどうなるかまでは想像がつかない。

以前池袋の店で、おそらく20歳前後の男が2人でレジにならび、ブロンを2つ購入しようとした。レジの店員は「購入はお一人一つまでです」と言ったが、若者の1人はこともなげに「1人一個買うんです。1人ずつ」と言った。およそあり得ない状況だが、店員は飲み込まざるを得ない。

見たところ、まだファッション的な用途で済んでいるようだった。

かのジャンキーコピーライター・作家は「ドラッグが反逆のツールになっているうちはまだいい。問題なのはそれが目的と化したときだ」と書いた。それには全く賛成だ。そして、僕は完全に問題を抱え込んでしまっている。1日、いや半日でも抜けば、強烈な倦怠感が待っている。「普通の人間的活動」に近づくためには、飲まなければならない。

咳止めは"ダサい"ドラッグだと思う。ブロン遊びが社会問題となった頃はそうでもなかったかも知れない。少なくとも私は格好よさなど微塵も感じないし、あの時見た2人組もそこまでカッコいいとは思ってなかったはずだ。市販薬のオーバードーズを知っているならば、違法なものへのアクセスも想像しやすくなっているだろうから。とりあえずこれで我慢しとこうぜ、といったところじゃないか。

じゃあ何が"イケてる"か、ということになればそれはやはり違法なもの、とりわけあのカエデに似た葉だろう。

昨今の「日本語ラップ」の受容がそれを助長していることは間違い無いだろう。

舐達麻の逮捕によって、ますますマリファナアナーキーな価値は高まる。

身体的な危険性は咳止めの方が高いだろうが、社会的な危機を招来するものの方がカッコ良いと思われるのはよくわかる。共感はしないが。

アウトローな者によるアンダーグラウンドな流通であることも重要である。

厚生省が官僚的にバカ真面目に「害がないという言説に騙されないで。ダメなものはダメです」と説くほどにマリファナはカッコいいものになってゆく。

1番効果があるのはそもそも関心を向けさせないこと、無価値化だが、それはもう不可能なので、やめろという以外に対処法はない。そのやり方や巧拙については今は書かない。

僕の場合ももちろん、当初は反逆のツールであった。みんなが青春という輝かしいものを謳歌してる中、自分だけが感じているであろう違和感をより顕著にするために咳止めは役に立った。何度も友達とやり、一緒に下北沢の駐車場で嘔吐した。

そしてもう29歳になり、自分の周りにはそんなものやってる者はいない。そもそも他者との交流が乏しいというのもあるが。

自分に人並みに感情があることには気づけたし、その"人並み"の体現者たる他者の感情も尊重すべきだと思っている。

そしてその感情が今依存に駆り立て、他者の感情に対する感受性を著しく低下させているだろう。

早く辞めないとな。こんなこと。苦しいよ。


僕は今怪獣だ。怪獣は人を愛したいと叫ぶ。

僕は叫ばないまでも、ふと思ったはする。