青いビンの底

私の、誠実さ(に近いもの)になりうる手段

110ほどの

 約110 

 今日の咳止めの数だ。

 前回は 約 を 訳 と書いていた。眠くて朦朧としていたのだ。

 前回よりは抑制された数だが、過剰摂取であることには変わりがない。一応辞めたいと思っているので、数が減ることは良いことではある。

 と言っても、数の増減は機会,そして気分に左右されるので、とても順調に減薬できているとは言い難い。それでも、減薬しなければならないと思ってはいるのだが、少なくなったと思ったら次の日にはあっさり増えていたりする。そうなると自分を責めざるを得ない。決して自分を責めることが悦ばしい訳ではない。一応、意思に反した結果に本当に落胆をしている。

 書きながらふと気づいたが、漠然と減らしたいと思っているだけで、具体的な方法や工夫については何も考えられていない。せいぜい、1日10錠ずつ減らそうとか、そんなものである。そして、そんな小さい目標さえあっさり粉砕される。そもそも、日毎に何十錠と増減するというのに、一体どこから10錠ずつ減らすのだ、という話である。

 まあ、焦らずに、適度に危機感を感じるくらいがいいだろう。そう考えると、どうにも危機感が希薄な気もするが。

 あくまで確認として書くが、死の希求などという高尚なものではない。日常の退屈さに耐えられないだけである。シラフでものごとを"見る"ことに疲弊している。

 ましてや悲しいという訳でもない。

 至ってシンプル。逃避しているのだ。

 退屈から。

 日常の実像から。

 そして、

 自分が逃避しているという現実から。


 思えば私は幼少期から逃避癖があったかもしれない。学校というシステムにも適合しづらい子どもだったし、私の突発的な暴力性や不可解な言動で、多くの人に迷惑をかけていてばかりいた。

 そのような子どもだったので、砧公園のなだらかな草原を原風景として、自分がいるべき場所はいつもあそこなのだと確信していた。そして今も確信している。

 私が死んで魂だけになったら、永久にあの草原のベンチに腰掛けているだろう。

 もちろん、魂など存在しない。これは喩えだ。

 退屈が煮詰まるほど、息苦しくなるほど、私はますます、あの草原へ還り続けてゆく。


 しかし、そこは逃げ場所なのではない。逃げ場所は私の心のあり方である。


 あの草原は、何にも侵されることがない。

 私自身にも。

 

 なぜなら、唯一のリアルだからだ。